スキーだけではなく、人生の恩師でもある角皆さんのDVDと書籍を同時にリリースすることになりました。
もうすでにたくさんの方にご購入頂き本当にありがとうございます。
制作ド素人ながら快諾してくれた角皆さんに感謝するとともに、今回の配信に伴いブログを書いてくれた事を嬉しく思います。
このブログの中で、私との出会いについて書いてくれましたので、私も私から見た角皆さんとの出会いと、角皆さんから学んできたことを書いてみたいと思いました。
私は、岩手県二戸市で生まれ、福岡小学校、福岡中学校、福岡高校と進みました。
九州の福岡高校ですよね?頭いいですね〜!と言われますが、岩手の高校で、県内では、中の下の公立高校です。
高校3年まで野球部でしたが、冬は練習をどうさぼってスキーに行くか?に熱心でした。
どうしてもスキー場に行けない時は、家の裏山を1kmくらい上り、ジャンプ台を作ってエア練習をして、道路を滑って家に帰るということを繰り返しました。この時一緒に付き合ってくれたのは弟でした。
余談ですが、アスファルトの上を滑るのはとても難しいです(笑)
高校3年、進路を考えなくてはいけない時期になっても頭の中はスキーでいっぱいで、進学も就職もまったく頭に入らずでした。
見かねた担任が、安比高原に口を聞いてくれて面接を受けたのは良かったのですが、理由を聞かれ「いっぱいスキーができるからです!・・」
落選でした。
そんな当時、擦り切れるほど見ていたビデオが、「岩渕隆二のモーグルフルアタックテクニック」
監修「角皆優人」でした。
スキーで生きていけないかな〜とぼんやり考えはじめた頃だったと思います。
そんな時、あるスキー雑誌で、角皆モーグルスクールのインストラクター募集の求人を偶然見つけ、即決。
手を震わせながら角皆さんの自宅に電話したのを覚えています。
面接は長野県の白馬村、父が車で連れていってくれました。
母は泣いていました。
家を継ぐはずだった長男が出ていく。あなたが家計の支えになってくれるはずだったのに・・
とても苦しい家計でした。
小遣いがなかったため朝夕で新聞配達をしましたが、給料日には溶けて無くなりました。
その経済的な苦しさも一つの原因だったと思いますが、私が高校1年の頃から母は精神を病んでいました。
「ここに居てはいけない。自分も狂ってしまう。この精神が移ってしまう。」
この事も、地元を離れ白馬村に行く決意を固くさせました。
と同時に、母を見捨てることにならないか?と自問自答を繰り返しました。
最終的に背中を押してくれたのは父でした。
そして、家を守ってくれたのは今一緒にインストラクターをしている弟でした。(あいつは粘り強いです。)
ちなみに、若い頃は進学できなかった事を家庭の経済的な事情のせいにしていましたが、今自分の子どもたちが進学する年齢になると、単に「自分は進学する気がなかったんだな〜」と思い出されます。
男子生徒全員、丸坊主が校則というすごい高校だったため、(野球部だからではなく、男子全員坊主です)坊主頭に学ランを着て、白馬村での面接へと向かったのです。
何をしゃべったのか多くは覚えていませんが、作文を持ってくるよう言われていたので、手渡しすると、
「これはお父さんかお母さんが書いたんじゃないですか?」
「いえ、自分で書きました。」
「あまりにも字が綺麗すぎる・・」
これが角皆さんとのはじめての会話だった気がします。
その時、ちょうどスクールのミーティングも兼ねていて、これまでの1校から3校に拠点を増やすタイミングだったため、たくさんのインストラクター希望の方が集まっていた事を覚えています。
生意気そうでやんちゃそうな人達も多く、あるインストラクターが5分遅れてミーティングに到着したところ、角皆さんからこんな注意を受けました。
「集合時間に5分遅れたら、5分×関係する人数分の損失が出る」
あるインストラクターが席を立つと、
「席を立ったら椅子を戻しなさい」
親も学校の先生もこんな事は教えてくれなかった。
ここにはきっと生きていくために必要な学びがある。そう思いました。
私の予感は良い方向に的中しました。
やんちゃそうなスタッフにまぎれて優秀な人材がたくさん紛れていたのです。
そして、角皆さんの個人事業だったスキースクールは会社組織へと移行し、季節変動を無くすことに成功し、スキーインストラクターが通年で働ける環境が整っていきました。
これは当時、というか今でも、ものすごい事ですね。
そんな中で、私も無知ながらも少しずつビジネスの面白さに引き込まれていくと同時に、独立心が強くなっていったのです。
インストラクターを一生懸命していると、スクールという母体があり、角皆さんのネームがあり、だからお客様の信用があるのだということを忘れていってしまいます。
まるで、お客様は私についていて、私だけを見てくれていて、私の実力だけで結果が得られているかのような錯覚がおきます。
そうなると、独立してスクールをした方が儲かるのではないか?という安易な考えに進むようになります。
そして何より「代表取締役社長」
鼻息の荒い若者は、この格式高い響きにぐっと引き寄せられていくのです(笑)
この辺はリテラシーの問題でしょう・・
そんな時期に角皆さんに言われた一言
「独立するなら新天地で」
たくさんご迷惑をおかけしましたが、この教えだけは守りました。
当時、独立方向に進むことは必然だったと思いますし、そう促されているようにも感じました。
会社は、そういう組織形態を作ることでリスクヘッジを行っていたと思うし、自分が今の立場になるとその理由もよくよく身に染みます。
今思うと、市場を一切無視した、無計画な気合いと勢いだけの超ガテン系独立
こうやって過去の事を思い出していると、教育って大事だな〜とつくづつ思います・・
教育にはタイムマシンのような効果がある気がします。
そんな独立ですから、何かを得るためには、実体験から少しずつ学んでいくという遠回りをしてきたため、超低成長な会社ができたわけですが、10年前に亡くなった父が「こうすれば失敗する」ということを教訓で残してくれていたため、今でも何とか生き残っています。
私は、どんな悲惨な状況からも学ぶ事があるということを知りました。
父は、財産は何も残しませんでしたが、とても貴重な教訓を残してくれたのです。
そんな私ですが、まだまだ学び続けたい、成長し続けたい。そういう小さな熱意が消えないのは、角皆さんのおかげです。
角皆さんにお会いすると、
「もう少し上手くなりたい」「もうちょっとこうできたら上手く滑れるのに」
先日誕生日を迎えられ67歳、驚くことに、まだ成長しようとしているのです!
長野県の経営者であれば知らない人はいないであろう、フジゲンの横内会長がおっしゃってました。
何か夢や目標に向かって努力し、それを成し遂げたときこう思った「人生っていうのは、こういうふうにできていたのか!」アメリカに単身ギターを売りに行き、はじめて受注をとった時の言葉です。
この話を聞いて、こういう姿勢自体が人生なんだと私は思いました。
車移動が多い私は運転時間の音声が学びの時間になるのですが、横内会長のこの言葉を聞いた時にポロポロと涙が溢れてきました。
僕もそういう人生を送りたい。
自分の子供にそういう背中を見せたい。
年配のお客様がレッスンに入ってくださって、私のような若輩者から学ぼうとしている姿勢を見ると心から尊敬します。
これまでは嘘くさく聞こえそうで、口に出さないようにしていましたが、最近はあえて言うようにしています。
「こうやってスキーレッスンに入って、コブにチャレンジしようとする、その姿勢自体が本当に素晴らしい事です」
「まだまだ続けてください。続ける事自体に意味があります。決して私にお金を払い続けてくださいというわけではありませんが・・爆笑」
私も続ける事自体に意味が出てくる年齢になってきた気がします。
自分の過去を振り返ることは好きではありませんが、書き始めたら過去の事があれもこれもと思い出されて長々と書いてしまいました。
まだまだ未熟ですが、インストラクターとして、これからも成長していきたいと思います。
それから動画の作り方も上達したいです。
小さな経営者としてもまだまだ学びたいです。
自分の子供に恥ずかしくないように生きたいです。
角皆優人・私のスキー教程、第2巻も楽しみにしていてください。
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